トラウマの話をしていくと、特に家族内のトラウマの問題になってくると、親が加害者で、子供が被害者…、的な話になりやすいわけです。親は罪悪感にさいなまれて苦しんだり、子供は親を恨んだり憎んだりしがちなわけです。

そして、このような対立は患者さんの治療効果に対してはマイナスに働くことはあっても、プラスに働くことはほとんどありません。これに対してどう捉えるべきか悩んでいましたが、最近は私なりにひとつのとらえ方を持っています。そして、以下のように患者さんに説明することがよくあります…

 例えば、母親が運転する車に娘が助手席に乗っていたとしましょう。そして、母親の運転ミスで電柱に激突し、母親の怪我はたいしたことはなかったけど、娘の方が大怪我をしたとします。このシチュエーションでは娘は母親を責めることもできますし、責めないこともできます。責める人は「お母さんのせいで私は大怪我をした」と母親の非を責めるでしょう。責めない人は、母親を苦しめたくないと感じているのかもしれません。

 さて、この出来事に対して医療はどのような関わりをするでしょうか? 怪我をした娘は病院に運ばれ、外科医の治療を受けることになるでしょう。そこで外科医の仕事とは、娘の怪我に対する診断と治療です。どこの骨が折れているのか、どこから出血しているのか、傷口の深さはどれくらいか…、それらを適切に評価して治療をしていくことです。目的は、怪我を治し、患者さんの痛みとか苦痛をやわらげ、健康な状態へ改善させることです。

 外科医は「お母さんは時速何キロで走っていましたか?」「前方不注意はありませんでしたか?」「お酒を飲んではいませんでしたか?」等の質問はしません。なぜなら、それは刑事責任の追及であっても治療ではないからです。責任の追及は治療とは全く別なことなのです。

しかし「怪我の治療はしても親への恨みは別だ…」と言う患者さんもいるでしょう。怪我で加害者を恨むパターン…、よくあるのがムチ打ちでしょうか。事故後、首や肩の痛みやしびれが長く持続する場合です。寒い季節になったら、梅雨のうっとうしい季節になったら毎年痛みやしびれが強くなってくる…。このような症状を抱えていると、症状が出るたびに「事故さえなければ、こんなに不快な思いをすることはなかったのに…」と感じます。しかし、もし症状が消失してしまったらどうでしょうか? いつまでも過去の事故のことを恨みがましく思うでしょうか? 言われたら思い出すかも知れませんが、普段は思い出すこともなくなるかもしれません。

怒りや恨みは、自由と言えば自由なのですが、治療として考えた時には、治療に対する阻害要因になります。健康的になろう、治療してよくなろう、幸せな未来を手に入れようという考えに基づき、できるだけ恨みや怒りを持たないことが大切かも知れません。

ここで難しいのが、損害賠償の問題です。親子であればこのような問題も出てこないのですが、加害者が他人の場合で、被害者が回復するべき損害がある場合には、どうしても被害の回復、すなわち民事裁判の話が出てきます。この被害の回復のための裁判などの争いと、治療とが相反する面が出てくることが難しいところです。患者さんに、この問題の性質を十分に説明し、患者さんが最終判断を下していく必要があるでしょう。争いが終わってから本格的に治療をするのか、治療がある程度進んでから争いをするのか、色々な選択肢があると思いますが、決めるのは患者さん自身です。

様々な犯罪事件や事故に巻き込まれた被害者とその家族は常にこの葛藤にさらされます。被害者が亡くなられた場合などは、残された家族は余計に刑事責任及び民事責任の追及という問題に関わっていくことになります。被害を受けた心の苦しみもありますし、被害の回復ということも重要でもあるのですが、仏教で言うところの四苦八苦の中に怨憎会苦というのがあります。本来の意味は恨み憎む人に会うことなのですが、実は自分自身の中にこれがあっても心の平穏はなかなか訪れてきません。いつの日か、この心と決別して心の平穏を取り戻していくことが大切でしょう。


しかし、以上のように書いてみたものの、家族関係の問題の場合、親を責めない患者さんも結構多いのですが、親に対する優しさでもあり、親に対する愛着でもあるのでしょうが、親の問題を過小評価して「自分が悪かったのだ…」という解釈になっている人も結構多かったりもします。治療者として「親が悪かった…」という言い方を奨励することもできず、かと言って「自分が悪い」という過剰な自己否定は修正していきたいし…、ジレンマになることもよくあります。しかし、これは本人の洞察を深めるために第三者に置き換えた話を想像してもらって客観的に考えてみたり、書籍を紹介したり、グループ治療に進めたりする形で、自然な形で本人の理解と洞察が深まるようにと考えています。